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百年史
から見る由来

遊学生たち 
との出会い 

デカンショ節は、江戸時代から歌われていた篠山地方の「みつ節」の変形したものである伝えられている。
民謡研究者前川澄夫(大野=大阪フィルハーモニー所属)の長年に亘る探索によって、昭和49年(1974年)多紀郡今田町四斗谷で、また昭和五十二年(1977年)後川新田でも、デカンショ節の元歌であるといわれる「みつ節」の歌詞や踊りの資料が得られたのである。 歌詞は誠に素朴で、また野卑なものも多くあり、節はデカンショ節と大同小異で、ハヤシ言葉が地域によって多少異なっていたようである。 次に、デカンショ節が全国に普及した過程において見落としてはならぬものに、千葉県館山の江戸屋(宿屋)における東京一高の学生たちとの出会いがある。旧篠山藩青山家の奨励によって、廃藩後郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成されたことは有名である。そして遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(1979年現在の館山市)を銷夏地と定めここにやってきた。

若者の共鳴
を受けて愛唱

たまたま明治31年(1898年)の夏、江戸屋の二階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて元気よく唄ったのが郷土の盆踊りの唄であった。ちょうど階下に居合わせた一高生の水泳部員たちがこれを聞き、唄の自然性や野性味、またその節廻しやリズム感がよく、たちまち気に入り、篠山出身の若者たちに付添い訓育に当たっていた亘理章三郎(後に東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放にこれを唄いまくったから、たちまち多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、全国に広まったといわれている。