七十五年史
から見る由来
デカンショ節
の発祥
デカンショ節は明治中期から広く全国的に愛唱されるようになり、其の発祥地としての篠山も亦デカンショと結びついて広く宣伝されて来た。然しデカンショは決して其の頃始めて生まれたものではなくて、ずっと古くから唄われて来た「みつ節」の変形である。
最近行われている盆踊は「さいもんくどき」「播州踊」「黒井踊」等であるが、日露戦争前頃までは「みつ節踊」が圧倒的であったという。
みつ節音頭というのは元来此の土地にのみ行われた固有の音頭で他地方にはなかったというが、果たしていつの頃から始まったのかは定かでない。節はデカンショと同じで只囃言葉の「デカンショ」が「ヤットコセ」のちがいだけである。
唄は総じて下卑なものが多く節は同じであるが「デカンショ」という豪快な囃が時代相にピッタリ来たのか、終いにデカンショ節として天下を風靡してしまった。其の根拠が「みつ節」にある事は、老人衆なら斉しく肯定し得るところであるが、果たしてその「みつ節」が何時頃発祥したのかは立証する何物も得難い。然し百年以上の歴史を持っている事は間違いないものと考えられる。
影を潜めた
「みつ節」
「みつ節」はついに「さいもんくどき」の踊に圧倒されて影をひそめてしまった。同時にその手振りも終いにあとを断ってしまった。「みつ節」にも続きものはあったようだが、元来七七七五調のドドイツ調であって、個々別々の唄を並べたものであるから音頭の種が切れると、エンギヤサ、エンギャサ、オチョコチョイノチョイと暴れ廻って踊りの輪をつぶしたものだという。
城北村の古老尾川誠一の話によると、嘗て古川町長は篠山の盆踊を篠山の伝統デカンショ節に統一して豪快なものにしたいというので、昔みつ節音頭をとったという音頭取の古老を探し求めた結果、八十歳前後の上田小太郎の現存する事を知って、この人に「みつ節」の由来と踊の実演を求めたが、老人の故を以て断られ其の代理として七十幾歳の古屋元吉が罷り出で、みつ節踊が古来この地方固有の踊であった事や、其の踊の手振りを見せたという事であるが、其の後のいきさつはわからない。